子供の頃から集めたセル画のコレクションです。

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P1040242.JPGキャプテンハーロックで火のついた僕のアニメ熱はそのままテレビでスタートした銀河鉄道999に移り、アニメファンクラブを作るまでになってしまいました。
まだ中学生になりたてで作っていた、その頃の会報は印刷の知識もなく、ただコピーを半分に折ってホチキスで留めるという今では小学生すら作らないような幼稚な作りでした。それでも2,3ヶ月おきに発行する会報のために学校の休日を利用しては友人達とプロダクションやアニメーター、声優さんの元へ取材に走り回っていました。どの方も、こんな子供達相手にでも、きちんと取材に応じていただきその時の感動は今でも大切な思い出です。


画像のセル画はその当時から今に至るまで収集していた物ですが、現在は手放してしまった物もあります。また、複製品もありますが個人のコレクションとしての画像なのでその点ご了承ください。

銀河鉄道999 (wikipediaより抜粋)

1977から1981年にかけて、少年画報社「少年キング」にて、同誌の看板作品として連載された。ヒットコミックス全18巻。第23回(1977年度)小学館漫画賞を受賞した松本零士の代表作。連載中にテレビアニメ化、劇場アニメ化されて大ヒットしてアニメブームの原点を確実なものとし、『宇宙戦艦ヤマト』シリーズとともに1980年代初めの松本零士ブームをも巻き起こした。
1981年に連載を終了して、当初はこれをもって完全に完結し続編はないとしていた
その後もイベント向けの番外編的な短編映像化は行われていたが、1996年になって小学館「ビッグゴールド」誌上で続編の連載が始まる。1999年の「ビッグゴールド」誌の休刊後は、「ビッグコミック」を経てWebで不定期連載し、松本は999話まで描きたいとしていた。 正式名称ではないものの、「少年キング」版を「アンドロメダ編」、1996年からの新作を「エターナル編」とファンの間で便宜上の仮称がつけられている。エターナル編は1998年に劇場アニメ化されて、ストーリーの完結までを描くその続編が1999年に劇場アニメとして公開される予定だったが頓挫している。
宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』とモーリス・メーテルリンクの『青い鳥』をヒントに執筆が始められ 、全体的に寓話性や教訓性がやや強いものの、物語や登場人物の印象的な描写によって多くのファンを得た。物語の枠組みは『銀河鉄道の夜』に登場する銀河鉄道を元にしているが、列車や運行システムの細部は日本の旧国鉄をモデルとしている。松本自身が『銀河鉄道の夜』『青い鳥』とともに、SLに乗って東京へ行った青春時代の体験が基になっていることを述べている。
タイトルの999には、大人の1000になる前で未完成の青春の終わりという意味が込められている。

劇場版銀河鉄道999

テレビシリーズ放送中に夏休み映画として公開されてヒットした2本の長編作品と、1998年に公開された中編作品がある。先に製作された映画版2作品の大きな特徴として、青春映画にしたいという製作陣の意図により、映画版1作目において主人公の鉄郎の年齢10歳から15歳に変更され、年齢設定が5歳引き上げられていることと、漫画版、テレビアニメ版に比べ鉄郎の顔が男前になっていることである。
映画版ではテレビシリーズとは声優が一部異なり、ナレーターは2作共通で城達也。3作目のエターナル・ファンタジーでは夏八木勲。映画版1作目でペンダントとなっているメーテルの父・ドクター・バンは納谷悟朗。
のちに映画版1作目と2作目が地上波でテレビ放送されたときはテレビシリーズ同様、フジテレビがゴールデン洋画劇場などの時間枠で放送していたが、1989年と1990年の12月下旬にTBSが奥さま劇場(「冬休みアニメフェスタ」)の時間枠にこれら映画版2作品を前後編に分けて放送したこともあった。
前2作の家庭用ビデオソフト化の際、当時VHSの標準モードの有効長に収まらず、VHS版はカット版となっていた。一方、ベータではβIIの有効長に収まったのでノーカットであった。

さよなら銀河鉄道999

前作からさらに2年後[33]の世界を舞台にした続編。1981年公開。
松本零士は、続編を制作したのは、前作では解決していなかった機械帝国の問題に決着をつけ、少年の自立を描くためとして、これを持って『銀河鉄道999』は完結としていた。そのため前作で描かれなかった、生身の人間から魂を抜き取り、機械化人のエネルギーにしていたという「機械帝国の実態」と「メーテル、プロメシューム親子の過去」や車掌の正体という全ての謎を明かしている[34]。生身の人間(鉄郎)と機械化人(黒騎士ファウスト)との戦いに決着をつけることで本シリーズ通じての根本のテーマである限りある命の尊さを印象づけた。機械化世界の衰退とそれへの反発を表現した内容が多く見られ、機械化世界のコントロールの難しさが表現されている。
前作ほどの配給収入は得られなかったが、目標としていた興行成績はクリアして、商業的には成功。もともとは前作の大ヒットにより、会社命令で作ることになり、監督のりんたろうは第1作でやり尽くしたとして固辞していた。プロデューサーの高見義雄も内容的には1作目の輝きがなかったと認めており、アニメ監督の細田守のようにりんたろう作品でナンバーワンというファンもいるが、一般的に評価は低い 。
本作の主題歌「SAYONARA」は30万枚を売り上げた。
終盤で鉄郎と最後の対決に臨む機械化人・黒騎士ファウストは江守徹。前作で死んだキャラクターの声を当てているキャストも別の役で再登場しており、機械伯爵の柴田秀勝は機関車、クレアの麻上洋子はメーテルの体を狙う機械化人メタルメナ、トチローの富山敬は惑星ラーメタルで鉄郎を助けたパルチザンのミャウダー、リューズ役の小原乃梨子は『宇宙海賊キャプテンハーロック』で持ち役だったミーメとして声をあてている。
映画キャンペーンとしては、前作のミステリー列車に引き続き、列車関連として中国大陸SLロマンの旅を50名にプレゼントすることになり、1万人が応募した[38]。公開当日の1時から5時には、ニッポン放送の『オールナイトニッポン』が4時間スペシャルのラジオ番組を放送し、番組内ではラジオドラマも行われた。
原作に相当する漫画が存在しない劇場オリジナル版だが、小説版が前作と同じ出版社3社から出された。コバルト文庫の若桜木虔の少年少女モンキー文庫のはやしたかしは前作から続投、ソノラマ文庫は脚本を担当した山浦弘靖が執筆した。

作品解説

漫画版アンドロメダ編を、コンパクトな形で再構成した全編新作のアニメ映画作品。1979年公開。製作した東映動画は、設立以来、親会社の東映の下で劇場アニメ映画の制作をしていたが、本作が東映動画にとっての初の自社製作の劇場映画となる
監督のりんたろう、キャラクターデザインの小松原一男、美術の椋尾篁のトリオは松本原作のテレビアニメ『宇宙海賊キャプテンハーロック』のスタッフであり、これを気に入っていた東映動画の今田智憲社長による指名である。従来、東映動画の劇場長編は社員しか監督していなかったが、社外の人間に監督を任せたのは初めてのことであった。当時はりんたろう監督の知名度が低いため、興行上の要請で看板としてネームバリューのある市川崑が監修として参加。市川は、脚本と絵コンテを見てりんたろうらスタッフにアドバイスなどをしている。
ストーリー構成は、制作当時までに漫画版で描かれてきた山場というべきエピソードを中心に再構成。原作・テレビでは旅立ち前の出来事であった機械伯爵との決戦が中盤に移動しているなど、時系列の入れ替えが大胆に行われている。999での旅を通じて描かれる鉄郎の成長と共に、『宇宙海賊キャプテンハーロック』で登場するアルカディア号が、どういう経緯でトチローの意思を持つようになったのか、未完となっていた漫画『クイーン・エメラルダス』での、トチローを探す彼女の旅の結末なども本作では描かれている。
ラストの鉄郎とメーテルが別れるシーンは、収録の際、野沢・池田共に感極まって泣きながら演じ、他のスタッフももらい泣きしたという。
また本作最大の特徴は、漫画版・テレビアニメ版共に未完結の時点での制作であったにも拘らず、「これからも鉄郎の旅は続く」といった尻切れにせず、漫画・テレビに先んじてアンドロメダ編の結末を最初に披露したことである。メーテルの正体や機械の体をただでくれる星の真実といった、序盤から挙げられていた謎の回答を先に見せるという、当時としては大胆な試みがなされていた[20]。そのため原作への影響を懸念する声も出たが、原作者の松本は「鉄郎が停車駅で繰り広げる幾多の出会いが大切なのだから大丈夫」と答えたという。
東映の岡田茂社長は記者会見で、中高生を対象にして配給収入の目標を10億円としていたが、結果はそれを上回る16億5000万円。1979年度の邦画の第1位で、これはアニメ映画史上初の快挙だった。さらに1980年の第3回日本アカデミー賞特別賞(話題賞)を受賞。映画雑誌『キネマ旬報』のキネマ旬報ベストテンでは17位と、映画としてアニメ映画が評価されなかった[23]時代に異例の評価を得る。同じくキネマ旬報の読者選出ベストテンでは5位、ぴあのぴあテンでは8位を獲得している。映画パンフレットも105万部を売り上げ、松本零士ブームの頂点を成した。1970年代後半から1980年代前半に巻き起こったアニメブームを代表する作品の一つである。
青木望の音楽によるサウンドトラック『交響詩銀河鉄道999』(CQ-7025) はオリコンLPチャートで1位、『銀河鉄道999 ドラマ編』(CS-7136-7) も同チャート5位を獲得。当時人気絶頂だったロックバンド・ゴダイゴによる主題歌『銀河鉄道999』もオリコンシングルチャート最高位2位・ザ・ベストテン最高位1位、シングル売上は120万枚に達した。
アメリカでは『Galaxy Express』の題名で1981年にロジャー・コーマンが設立したニューワールドにより公開された。アメリカ版を製作したのは『風が吹くとき』などを監督したジミー・T・ムラカミで、英語字幕を作り、長すぎるという理由で再編集して1時間30分に短縮された。映画評論家の森卓也は1983年公開のアメリカ映画『銀河伝説クルール』に影響を与えた可能性を指摘している。
このアニメ映画を元にした小説版は出版社別に3作あり、ソノラマ文庫ではテレビシリーズの脚本を手がけた藤川桂介が、集英社からはコバルト文庫の若桜木虔と少年少女モンキー文庫のはやしたかしの他、原作を掲載していた少年画報社からは井口佳江子により小説化している。

スタッフ

製作総指揮:今田智憲
企画・原作・構成:松本零士
企画:有賀健、高見義雄
脚本:石森史郎
作画監督:小松原一男
美術監督:椋尾篁、窪田忠雄
監督:りんたろう
音楽:青木望
監修:市川崑
原画:兼森義則、友永和秀、金田伊功、中島忠二 他
製作:東映動画
配給:東映

主題歌:「銀河鉄道999」/ 挿入歌:「Taking off」
作詞:奈良橋陽子、山川啓介 / 作曲:タケカワユキヒデ / 編曲:ミッキー吉野 / 歌:ゴダイゴ
挿入歌:「やさしくしないで」
作詞:中原葉子 作曲:中村泰士 編曲:青木望 歌:かおりくみこ

銀河鉄道999

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DSCN0839.JPG左の巨大背景画にかぶせて使用した透過光用のセル。
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P1040293.JPGA2大の巨大背景
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maeter6.jpg冥王星で自分の亡骸を見つめるメーテル。本編ではカットされました。
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さよなら銀河鉄道999

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小松原一男さん

ファンクラブを始めて、最初にお会いしたアニメーターが小松原一男さんでした。荻窪のスタジオに訪ねると親切にいろいろ見せてくださり、近くの椋尾スタジオ(背景を描くスタジオ)まで連れて行ってくださり、帰りには999の原画や設定資料などを山のようにいただきました。当時の幼稚な会報の為にインタビューにも応じていただき忘れられない思い出です。

小松原 一男(こまつばら かずお、1943年12月24日 - 2000年3月24日)は、神奈川県横浜市出身の日本の男性アニメーター、キャラクターデザイナー。
1970年代から1980年代の東映動画作品を代表するキャラクターデザイナーとして活躍。東映動画の社員ではなく、テレビアニメ時代を迎えた東映動画を支えた、外注プロダクションの生え抜き第1世代にあたる。亡くなるまで、作画スタジオ「OH!プロダクション」取締役。
功績を讃えられ、故人として東京国際アニメフェア2008で功労賞を受賞。
ハーロック_0002_NEW.jpg仕事中の小松原さん

生い立ち

中学卒業後定時制高校に通いながら、電気器具の塗装の仕事に就く。松竹映画スター肖像画コンクールに応募して入選するなど、かねてから絵で身を立てたいと祈願し、横山隆一のアニメ制作スタジオ「おとぎプロ」を見学したり、手塚治虫の虫プロダクションの入社試験を受けたりした末に、1964年に東映動画のアニメーター養成機関だった大森分室へ入所する。
1期生は研修を終えると東映動画へ入社したが、小松原ら2期生の4人は大森分室に残り、大森分室はそのまま作画スタジオ「チルドレンズ・コーナー」として独立。スタジオを主宰する山本善次郎は東映動画の創立メンバーで、「チルドレンズ・コーナー」は自然と東映動画系の外注スタジオという位置付けになった。東映動画初のテレビアニメ『狼少年ケン』の動画で小松原はデビュー。このとき仕事をともにした月岡貞夫らから触発されたと、後に語る。

ハーロック_0003_NEW.jpgOHプロダクションの小松原さんの机。

仕事歴

虫プロダクションやTCJなど他社の作品もこなしながら、『魔法使いサリー』で原画に昇格。1968年に朝日フィルムへ、1969年にハテナプロへとスタジオを移り、同年の『タイガーマスク』で初の作画監督を経験。『タイガーマスク』は小松原にとって初の劇画調の作品であり、初期の代表的な仕事と評価されている。ハテナプロは分裂する形で解散し、1970年に小松原は、村田耕一、米川功真、才田俊次らと作画スタジオOH!プロダクションを設立。OH!プロダクションは、東映動画や東京ムービー、日本アニメーションの作品を手がけたが、小松原はもっぱら東映動画作品に参加した。
1972年の『デビルマン』を始めとして、『ゲッターロボ』(1974年)、『ゲッターロボG』(1975年)、『UFOロボ グレンダイザー』(1975年)、『マグネロボ ガ・キーン』(1976年)と東映動画で永井豪原作のテレビアニメのキャラクターデザインを次々と任された。1987年からのマンガ版を元にした『デビルマン』をリメイクしたオリジナルビデオアニメでは、再びキャラクターデザインと作画監督を務めている。

『宇宙戦艦ヤマト』でブームを巻き起こしていた松本零士作品のキャラクターデザインを担当するようになり、1978年のテレビアニメ『宇宙海賊キャプテンハーロック』、1979年のアニメ映画『銀河鉄道999』を担当。松本キャラクターに挑んだアニメーターの中では小松原が一番の人気を得て、アニメ雑誌の表紙やページを小松原のイラストがしばしば飾った。同時期の東映動画作品のキャラクターデザイナーでは荒木伸吾も人気を博していたが、東京ムービー作品も手がけた荒木に対して、小松原は東映動画を仕事の中心としていた。松本作品でコンビを組んだりんたろう監督とは、その後も『がんばれ元気』(1980年)で仕事をし、アニメ映画『メトロポリス』もりんたろう監督作品だった。
永井豪や松本零士といった男性向けの作品ばかりでなく、『ミラクル少女リミットちゃん』(1973年)、『はーいステップジュン』(1985年)といった少女向け作品のキャラクターデザインも担当している。宮崎駿に請われて参加し、作画監督としてクレジットされた1984年のアニメ映画『風の谷のナウシカ』は、監督の宮崎駿が総作画監督的な役割を兼ねており、作画面では補佐的な立場だったが、東映動画の長編時代全盛期を知らない小松原にとって、宮崎から学ぶことは多かったという。
小松原のオリジナルキャラクターでは、J9シリーズと呼ばれた国際映画社の一連の作品もあった。
OH!プロダクションは下請けにとどまらず、高畑勲を監督に迎え、宮沢賢治原作の『セロ弾きのゴーシュ』を7年かけて自主製作して1982年に公開する気概を見せた。小松原はこの作品で企画を担当している。

晩年

1990年代後半に胃潰瘍で倒れてからは、テレビアニメから退いて、劇場アニメやオリジナルビデオアニメの仕事に比重を移した。『メトロポリス』では、病の痛みのために立ったまま原画を描いたが、完成を見ることなく2000年3月24日に頚部悪性腫瘍で死去した。
2008年 功績を讃えられ東京国際アニメフェア2008で功労賞を受賞。

小松原一男氏インタビュー

(メーテル会報第9号掲載 1979年8月10日収録)
Q:鉄朗は(テレビ版の鉄朗と違って)今までではなくなぜ15歳にしたのですか?
A:いろんなシーンで戦ったりする場合に、今まででは幼すぎるんです。それからメーテルと並んだ場合、背の差が違いすぎるからです。
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Q:テレビのメーテルというのと、映画のメーテルとにおいて、主に違いがあるというところはどこですか?
A:ま、こっちはあまり変えてないけど、主に顔なんかもなるべく松本さんのに合わすようにしました。
Q:キャラを作っていたときにご自分が一番気に入ったキャラはどんな人物ですか?
A:最初の頃の機会伯爵とか、テレビのやったでしょ?あれでまた書いてからね。あれの方が次ちょっと芝居がある程度絡むところが面白いんです。ベルばら等のカワイコちゃんとかそういうの全部メカにくっつけたみたいの。ああいうの松本さんが加えたんです。
Q:一番難しかったキャラクターは?
A:ん。やっぱメーテルが一番。
Q:プロメシュームとか機械人間なんていうのはごくオリジナル的なキャラクターっていうのはどういう発想からですか?
A:プロメシュームは松本さんが最初のイラストを描いてそれをちょっと色を加えただけです。
Q:ではテレビと映画とラストは同じですか?(この当時まだテレビは放映中でした)
A:それはまだ僕全然わかりません。
Q:先に映画を見たあとに見るとテレビの方がだんだん幻滅的になってしまうんですが、,,。
A:もう、なんか盛り返すためにスペシャル番組作るってね。うん、テレビ用の999をね。
Q:機関車の絵を描いたとき、一番苦労した部分は?
A:機関車全部が大変だったね。機関車っていうのはどうしても窓がいっぱいあるでしょ?そうすると戻ってしまうんです。フィルムを映すと後方から進んでいるとしたらちゃんと中割をするんだけど、目の錯覚で風景の方が動いて見えちゃうんです。あれ、どうしようもなくって苦労したんだよね。そしてメカはピストンで動いたりするでしょ?そういう物はね、細かい、それだけタイミングが良く使えなくちゃいけないでしょ?本物は、最初の方がガッチャンって空回りするでしょ?動輪が空転して、あれなんかも1コマでやっているんだけどね。シュッシュー、ガチッ、実際そういう風になるのね。だからテスト、テストでね。ま、そういうところに力を入れて出来る限り本物とそっくりに作ろうとしたんです。
Q:全体として一番難しかったシーンはやはり機関車なんですか?
A:そうね、機関車もね。それに戦闘シーンや爆発シーンだね。もう1カット6秒くらいのね、最後にメーテル星にコロナみたいなのが出るんですが、全部オール1コマ撮りなんです。
Q:映画に出てきたハーロックはなぜ艦内ではなく外で操縦したのですか?
A:あれはねぇ、松本さんのアイディアでね、迫力を出すためにね、外へ持って行こうと。いつも中にいてはね、ま、実際にね、鉄朗とね、メーテル星に行くのでマントがなびいてかっこいいし,その方がよいし、後ろにドクロの旗をなびかせていくっていう、その方が迫力があるのね。本当からいったらウソだけどね。それに爆風によってキズが出来たりして血が流れたりする,そう言う所にね、ハーロックの強さが見られるっていうのかな。テレビの方では命令ばっかりしてね。ま、自分で外に出てやる,本当の船長さんらしいね。そしてニコッと笑う、あの辺がかっこいいよね。
Q:作画をされていてもう少し直したかった所ってありますか?
A:結構あるんだけど、最後のね,走りが大失敗してしまったね。あと、もっともっと枚数かけて、,,。
S54.8.10 荻窪にて。

今読み返すとあまりに稚拙で失礼な質問ばかり。本当に申し訳ないのと恥ずかしい思いでいっぱいです。